江古田ヶ原・沼袋古戦場の碑@江古田公園(沼袋)
|最終更新日:2020/02/15
中野区松が丘の江古田公園に、江古田ヶ原・沼袋古戦場の碑があります。
文明9年4月13日(ユリウス暦換算:1477年5月25日)、武蔵国多摩郡の江古田ヶ原を主戦場として、豊島氏 vs 太田道灌の戦いがありました。
妙正寺川と江古田川の合流する地点。現在の中野区立江古田公園付近。
豊島氏は、鎌倉時代の有力御家人で、南武蔵(現在の東京都)の開発に大きく貢献した名族。
室町時代になっても武蔵国北豊島(現在の豊島区・練馬区・板橋区・北区など)を中心に、広大なエリアを領有していました。
兄の豊島泰経は、石神井城(現在の石神井公園)、弟の豊島泰明は、練馬城(現在のとしまえん)を拠点としていました。
一方の太田道灌は、扇谷上杉家の家臣で、自身が築城した江戸城(現在の皇居)を拠点としていました。
当時は、関東管領山内上杉家・扇谷上杉家と、古河公方が対立。
関東管領上杉家の家臣・長尾景春が裏切り、古河公方と結び挙兵すると、豊島氏が呼応。
太田道灌は、練馬城(平塚城説あり)に進軍し、城に矢を放つとともに、周辺に火を放ちました。
太田軍が江戸城へ引き上げる途中、石神井城・練馬城から豊島氏が追撃。
江古田ヶ原(現在の中野区立江古田公園付近)を主戦場として、豊島氏vs太田道灌の両軍が激突しました。
豊島氏は、現在の歴史民俗資料館、太田道灌は、現在の哲学堂公園付近に陣を張りました。
ただし、現在”合戦”と聞いてイメージする戦国時代のような両軍が一斉にぶつかりあう大規模な戦いではなく、新青梅街道沿いを中心に、広大な範囲で散発的に戦いが行われました。
その証拠に、戦死者を葬った首塚が、何ヶ所も存在しており、マンション建設などで地面を掘り起こした際などに、人骨や武具が大量に見つかっています。
豊島氏が、名門の武士(職業軍人)で個々が戦闘のプロなのに対し、太田道灌は「足軽戦法」を戦国時代に先駆けて導入し、身分も戦闘力もモチベーションも低い足軽を中心とした集団戦術の軍隊でした。
序盤は、豊島氏が優勢。
逃げ延び、道に迷った太田道灌が、猫に導かれ西落合の自性院(現在の落合南長崎駅近く)に逃げ込み、再起したと伝えられています(招き猫伝説)。
しかし、次第に集団戦術を活かした太田道灌が逆転。
弟の豊島泰明は討ち死。討ち死と言っても、武士同士の一騎打ちのような正々堂々としたものではなく、矢が当たり落馬してひるんだ隙に首を切られたとされています。
敗戦し、兄の豊島泰経は、石神井城に撤退しました。
その後、石神井城を太田道灌が取り囲み、豊島泰経の石神井城は落城。
照姫伝説では、豊島泰経は金の鞍と白馬とともに三宝寺池に飛び降りて自死。
娘の照姫も後を追って入水自殺したことになっています。
しかし、史実では、豊島泰経は夜陰にまぎれて城を脱出した後、行方不明、
行方不明と言っても、発見されている書物や書状には登場していないだけで、きっと再起を図って活動していたものの、話題に上がるような成果が得られなかったのでしょう。
照姫は実在するか証明されていません。
練馬城は廃城となり、雑木林や畑作地となりました。
なお、太田道灌が練馬城に矢を放ち周りに放火しただけですぐに引き返したのは、少数で挑発行為を行い、集団戦術に有利な平地におびき寄せるため、という説もあります。また、豊島領内(アウェイ)での戦いを避けた、とも考えられます。
関東を二分した天下分け目の戦い・江古田ヶ原。
もしも、豊島氏が勝っていたら、都心は練馬区、皇居は石神井公園だったかも!?
江古田公園
江古田公園
場所はこのへん