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練馬・桜台情報局

歴史探訪

九頭龍弁財天(中村橋)

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2024年(辰)の辰・龍・ドラゴンめぐり。

中村橋と富士見台の間、千川通り沿いの九頭龍弁財天を調査しました。

九頭龍弁財天
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裏側
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由来記
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由来が書かれた石碑は、昭和49年(1974年)11月吉日建立。

「九頭龍弁財天は、約600年前、渡辺竜神の遺言により、安芸の厳島神社の祭神・市杵島姫大神の分御霊を奉祀した後、渡辺竜神を合祀し、この地の守護神として、貨殖の神、言論芸能の神、開運延命の神として、信仰篤く尊崇され、幾多の御利益の・・・」

「天変地異により住宅の一隅に安置されていましたが、社殿をこの地に安置・・・」(推測ですが、水害・洪水で流されて?民家の敷地にあったものを移転)

「中村橋の傍らに安置され千川改修工事の際、行方不明のままに放置されていた弘法大師碑を南蔵院より、庚申碑を坪田石材店より」

渡邉龍神碑、九頭龍弁財天祠、弘法大師碑、子庚申碑
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渡邉龍神
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渡邉龍神碑、側面には「豊島権守守護神勧請」、逆の側面には「昭和30年12月13日建之」

豊島家の家臣に渡辺という武士がいました。

文明9年(1477年)太田道灌により、主君・豊島氏の石神井城が落城。

豊島家が滅亡後、遺臣の渡辺は、この近辺に隠れ住んでいました。

信仰していた弁財天に、主君の仇・太田道灌の死を祈願。

弁財天の祠を建てるよう遺言を残し、渡辺は自ら命を絶ちました。

以来、村に災いが起こり、渡辺の怨念が原因ではないかと噂されました。

一説には、渡辺が、9つの頭を持つ龍神となり、祟っているともされました。

文明18年(1486年)太田道灌、暗殺され死にました。

しかし、渡辺の念願が達成された後も災いは続きました。

災いの原因は、渡辺の遺言を果たしていないからではないかという者が現れました。

九頭龍弁財天の小祠が、九頭龍橋のたもとに建てられました。

九頭龍弁財天の小祠
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九頭龍伝承・信仰は、箱根神社など、全国各地にあり、雨乞い、厄除け、縁結びなど。

九頭龍橋(くずりゅうばし)は、千川上水にかかっていた橋の名前。

現在の富士見台駅南口、千川通り、富士見台駅前郵便局や牛繁がある五差路にありました。

橋の名前の由来については、この地に伝わる渡辺龍神の九頭龍伝承と、(増水時など崩れやすい)崩れ橋だと縁起が悪いので、当て字として付けられたようです。

渡辺龍神の怨念で?、橋を渡る人に災いが起きる、大蛇を見て病気になる、大入道を見て気狂いになると噂されました。

くず(れる)という音が縁起が悪いので、花嫁行列は絶対に通ってはいけない橋とされていました。

そんな九頭龍橋のたもとに、九頭龍弁財天の小祠が祀られていました。

由来記によれば、どこかの住宅の一隅に安置されていましたが、1974年、現在地に移設。

弘法大師碑
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中村橋(駅の名前)の由来となった中村橋(橋の名前)は、千川上水にかかる橋でした。

現在の中村橋駅南口・千川通りの交番・マクドナルド付近。

かつては中村橋(橋の名前)のたもとに、弘法大師碑が祀られていました。

中村橋(地域の名前)には、貫井池という湧水池がありました。

現在の貫井中学校グラウンド付近。

1957年まで存在していましたが、埋め立てられて、現在はありません。

貫井池には弘法大師伝説があります。

むかし、この付近の村人たちが、干ばつで、水不足に苦しんでいました。

この地を訪れた弘法大師が、杖を地面を突いたところ、水が湧き出し、池になりました。

地を貫き、井(水をくみ上げるところ)になり池になったことから、貫井池と名付けられ、地名の貫井の由来ともなっています。

貫井池の水は、農業用水としても使われ、貫井エリアは発展しました。

村人たちは、弘法大師を中村橋(橋の名前)のたもとに碑を建て祀りました。

(弘法大師の同じような伝承は全国各地にあります。)

千川上水の暗渠化工事の際に、弘法大師碑は行方不明になってしまいました。

九頭龍弁財天の弘法大師碑には、南蔵院の銘があり、1974年11月に建立されたようで、行方不明になったのとは別物。

隣の子庚申塔については、1974年11月、坪田石材店が寄贈・奉納。

馬頭観世音菩薩碑、地蔵菩薩像
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馬頭観世音菩薩碑は、九頭竜弁財天奉賛会一同による1989年12月建立。

地蔵菩薩像は、裏面に火災により命を落とした28歳の母と生後3ヶ月の男の赤ちゃんの名が刻まれています。

母子を不憫に思った地元の有志により、1956年12月建立されたものが1974年に移設されてきた?ようです。

場所はこのへん

九頭龍弁財天

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江古田ヶ原・沼袋古戦場の碑@江古田公園(沼袋)

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中野区松が丘の江古田公園に、江古田ヶ原・沼袋古戦場の碑があります。

江古田公園

江古田公園

文明9年4月13日(ユリウス暦換算:1477年5月25日)、武蔵国多摩郡の江古田ヶ原を主戦場として、豊島氏 vs 太田道灌の戦いがありました。

妙正寺川と江古田川の合流する地点。現在の中野区立江古田公園付近。

豊島氏は、鎌倉時代の有力御家人で、南武蔵(現在の東京都)の開発に大きく貢献した名族。

室町時代になっても武蔵国北豊島(現在の豊島区・練馬区・板橋区・北区など)を中心に、広大なエリアを領有していました。

兄の豊島泰経は、石神井城(現在の石神井公園)、弟の豊島泰明は、練馬城(現在のとしまえん)を拠点としていました。

一方の太田道灌は、扇谷上杉家の家臣で、自身が築城した江戸城(現在の皇居)を拠点としていました。

当時は、関東管領山内上杉家・扇谷上杉家と、古河公方が対立。

関東管領上杉家の家臣・長尾景春が裏切り、古河公方と結び挙兵すると、豊島氏が呼応。

太田道灌は、練馬城(平塚城説あり)に進軍し、城に矢を放つとともに、周辺に火を放ちました。

太田軍が江戸城へ引き上げる途中、石神井城・練馬城から豊島氏が追撃。

江古田ヶ原(現在の中野区立江古田公園付近)を主戦場として、豊島氏vs太田道灌の両軍が激突しました。

豊島氏は、現在の歴史民俗資料館、太田道灌は、現在の哲学堂公園付近に陣を張りました。

ただし、現在”合戦”と聞いてイメージする戦国時代のような両軍が一斉にぶつかりあう大規模な戦いではなく、新青梅街道沿いを中心に、広大な範囲で散発的に戦いが行われました。

その証拠に、戦死者を葬った首塚が、何ヶ所も存在しており、マンション建設などで地面を掘り起こした際などに、人骨や武具が大量に見つかっています。

豊島氏が、名門の武士(職業軍人)で個々が戦闘のプロなのに対し、太田道灌は「足軽戦法」を戦国時代に先駆けて導入し、身分も戦闘力もモチベーションも低い足軽を中心とした集団戦術の軍隊でした。

序盤は、豊島氏が優勢。

逃げ延び、道に迷った太田道灌が、猫に導かれ西落合の自性院(現在の落合南長崎駅近く)に逃げ込み、再起したと伝えられています(招き猫伝説)。

しかし、次第に集団戦術を活かした太田道灌が逆転。

弟の豊島泰明は討ち死。討ち死と言っても、武士同士の一騎打ちのような正々堂々としたものではなく、矢が当たり落馬してひるんだ隙に首を切られたとされています。

敗戦し、兄の豊島泰経は、石神井城に撤退しました。

その後、石神井城を太田道灌が取り囲み、豊島泰経の石神井城は落城。

照姫伝説では、豊島泰経は金の鞍と白馬とともに三宝寺池に飛び降りて自死。

娘の照姫も後を追って入水自殺したことになっています。

しかし、史実では、豊島泰経は夜陰にまぎれて城を脱出した後、行方不明、

行方不明と言っても、発見されている書物や書状には登場していないだけで、きっと再起を図って活動していたものの、話題に上がるような成果が得られなかったのでしょう。

照姫は実在するか証明されていません。

練馬城は廃城となり、雑木林や畑作地となりました。

なお、太田道灌が練馬城に矢を放ち周りに放火しただけですぐに引き返したのは、少数で挑発行為を行い、集団戦術に有利な平地におびき寄せるため、という説もあります。また、豊島領内(アウェイ)での戦いを避けた、とも考えられます。

関東を二分した天下分け目の戦い・江古田ヶ原。

もしも、豊島氏が勝っていたら、都心は練馬区、皇居は石神井公園だったかも!?

江古田公園
江古田公園

江古田公園
江古田公園

場所はこのへん

中野区松が丘2丁目35

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ビール麦金子ゴールデンの碑@豊玉氷川神社(練馬)

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豊玉氷川神社に、ビール麦金子ゴールデンの碑があります。

豊玉氷川神社(練馬)

豊玉氷川神社
豊玉氷川神社(練馬)


豊玉氷川神社(練馬)

ビールの原料となる麦として、明治時代、外国産の品種が栽培されていました。

北豊島郡中新井村(現在の練馬区豊玉)に金子丑五郎という、米麦や野菜など農産物の品種改良に情熱を注ぐ篤農家がいました。

明治33年(1900年)金子丑五郎は、国産の六条大麦・四国と、米国品種のゴールデンメロンを自然交雑させ品種改良。

国産初のビール麦品種として、「金子ゴールデン」と名付けました。

早生で草丈が低いため成熟しても倒れにくく、一時、関東一円に栽培が広がりました。

その後、品種改良により、金子ゴールデンを親とする優良品種に替わりましたが、昭和25年頃まで栽培されていました。

関東の麦農家の経営安定と、国産ビール醸造に大きく貢献をした、練馬・豊玉の金子さん。

2006年、郷土の偉人の業績を讃えるため、近所の豊玉氷川神社内に、ビール麦金子ゴールデンの顕彰碑が建立されました。

ビール樽を割ったような独特な形状をしています。

2003年からは練馬の農家有志により、金子ゴールデンの栽培の復活に取り組み。

2011年5月9日、金子ゴールデンビール発売。

練馬の農家が生産したビール麦・金子ゴールデンを使った地ビールとして、JA東京あおば直売所で販売。


豊玉氷川神社(練馬)


豊玉氷川神社(練馬)

国産ビール麦の発祥の地。日本のビールの親は、練馬区にいた。

郷土の偉人に想いをはせながら、国産ビール黎明期の味を。

金子ゴールデンビールは、JA東京あおばで販売中。

(碑がある豊玉氷川神社の)場所はこのへん

練馬区豊玉南2-15-5

豊玉氷川神社の詳細情報

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「トキワ荘ゆかりの地」散策(椎名町)

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豊島区の椎名町(南長崎)で、トキワ荘ゆかりの地を散策。

マンガの聖地 としま
椎名町駅

西武池袋線椎名町駅改札前などで配布している「トキワ荘ゆかりの地散策マップ」を片手に、昭和のマンガ家が暮らした椎名町、当時の面影を残す街並のトキワ荘跡地周辺を、まち歩きします。

トキワ荘ゆかりの地 散策マップ
トキワ荘ゆかり(椎名町)

椎名町駅改札
トキワ荘ゆかり(椎名町)

椎名町ギャラリー
椎名町駅

椎名町ギャラリー
椎名町駅

椎名町駅改札を出て右には、椎名町ギャラリー。

豊島区ゆかりのマンガ家が、定期的に展示が入れ替られ紹介されています。

現在(2018年8月)の展示は、横山孝雄先生。

トキワ荘住人・赤塚不二夫先生のアシスタント第1号として、一時は月の半分をトキワ荘で寝泊りしていたマンガ家。

作品には、『旅たて荒野』、『諸葛孔明グラフィティー』など。

椎名町駅南口
トキワ荘ゆかり(椎名町)

椎名町ギャラリーを右にすすみ階段へ。

椎名町駅南口
トキワ荘ゆかり(椎名町)

壁画
椎名町駅

椎名町駅南口階段踊り場には、大きな壁画が設置されています。

「ようこそ!トキワ荘のあった街 椎名町へ」

トキワ荘ゆかりの地 散策マップ
トキワ荘ゆかり(椎名町)

階段を降りたところにも、トキワ荘ゆかりの地 散策マップが設置されています。

椎名町公園
トキワ荘ゆかり(椎名町)

駅を後にして、椎名町公園方面へ。

椎名町駅公園に沿って左に曲がって、まっすぐ進みます。

あけぼの湯・あけぼのハウス跡
トキワ荘ゆかり(椎名町)

右を見ながら歩いていくと「ゆかりの地解説板」。

トキワ荘周辺では、このような「解説板」が、トキワ荘ゆかりの地に設置されています。

あけぼの湯・あけぼのハウス跡
トキワ荘ゆかり(椎名町)

あけぼの湯は、1973年頃まで営業していた銭湯で、トキワ荘のマンガ家も利用していました。

隣接していたアパート・あけぼのハウスには、トキワ荘を退出した石ノ森章太郎先生が、1962年から入居し、1年半ほど創作活動をしていました。

区民ひろば富士見台
トキワ荘ゆかり(椎名町)

あけぼの湯・あけぼのハウスの跡地は、区民ひろば富士見台となっています。

庭には、銭湯時代の灯篭などが残っています。

目白映画跡
トキワ荘ゆかり(椎名町)

さらに、まっすぐ進むと、大きな通り(目白通り)へ。

その角にも、ゆかりの地解説板・目白映画跡。

目白映画跡
トキワ荘ゆかり(椎名町)

目白映画は、トキワ荘のマンガ家たちが足繁く通った東宝系の映画館。

姉が亡くなった日に、石ノ森章太郎先生が映画を観ていたのも、この映画館。

目白東宝と名義をかえ、1970年頃まで営業していました。

目白映画跡
トキワ荘ゆかり(椎名町)

目白映画の跡地は、ドラッグストアになっています。

エデン跡
トキワ荘ゆかり(椎名町)

吉野時計店の前にも、ゆかりの地解説板・エデン跡。

エデン跡
トキワ荘ゆかり(椎名町)

1949年から営業していた音楽喫茶エデン。

トキワ荘のマンガ家たちが、最も通った喫茶店。

当時すでに冷房設備があったこの喫茶店で、よくマンガの構想をねり、ペン入れまですることもありました。

山手通りと目白通りの交差点にあり、山手通りの拡幅工事により、2002年に閉店。

交差点
トキワ荘ゆかり(椎名町)

交差点
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘通り
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘のあった街 目白通り・二又商店会。

スタンプラリー
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘通りにある2つの商店会共催で、マンガの聖地巡礼スタンプラリー実施。

目白通り二又商店会・南長崎ニコニコ商店街の15店にスタンプ台を設置。

吉野時計店の前にあるスタンプ台が東端なので、スタートorゴールに(押す順番は自由)。

スタンプラリー
トキワ荘ゆかり(椎名町)

スタンプラリー
トキワ荘ゆかり(椎名町)

菊香堂跡と鈴木園
トキワ荘ゆかり(椎名町)

菊香堂跡と鈴木園
トキワ荘ゆかり(椎名町)

菊香堂は、自家製パンやケーキ菓子の老舗。

トキワ荘のマンガ家たちも、コッペパン(当時10円)など利用していました。

隣の鈴木園の2階は当時アパートで、トキワ荘から転出した赤塚不二夫先生・よこたとくお先生が、1961年にそれぞれ新婚生活をスタートさせた場所。

赤塚不二夫先生の「おそ松くん」「「ひみつのアッコちゃん」、よこたとくお先生の「マーガレットちゃん」などは、ここで誕生しました。

鈴木園
トキワ荘ゆかり(椎名町)

タバコなどを販売している鈴木園は現在も営業しています。

バス停
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘のマンガ家たちも目白方面に行く時に利用していたバス停。

練馬方面の方は、都営バス白61で、桜台の練馬車庫(たまに練馬駅)から乗車し「南長崎二丁目」で下車すれば、トキワ荘通り近くに直通で行くことができます。

練馬・桜台からも、意外と身近なトキワ荘通り。

二又
トキワ荘ゆかり(椎名町)

目白通りとトキワ荘通りが二又になっていて、二又交番は、当時もあり現存。

トキワ荘通り
トキワ荘ゆかり(椎名町)

吉津屋米店跡
トキワ荘ゆかり(椎名町)

吉津屋米店跡
トキワ荘ゆかり(椎名町)

吉津屋米店は、トキワ荘のマンガ家たちも、米穀通帳の配布を受け、米の配達もしてもらっていました。

改築され、跡地は、トキワ荘お休み処に。

トキワ荘お休み処
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘お休み処
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘お休み処は、2013年12月15日オープンしたトキワ荘通り案内所。

1階では、トキワ荘関連本の閲覧ができる他、関連グッズ・資料の販売。

2階では、寺田ヒロオ先生の部屋の再現展示など、トキワ荘に関する展示コーナー。

南長崎マンガステーション
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘お休み処のすぐ近くには、南長崎マンガステーション。

マンガ・アニメによる街づくりの拠点。

信金
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘お休み処の向かいの信金にも、マップ展示。

トキワ荘の窓
トキワ荘ゆかり(椎名町)

信金さん
トキワ荘ゆかり(椎名町)

子育地蔵尊
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘通りをさらに進むと、右の奥に、子育地蔵尊。

子育地蔵尊
トキワ荘ゆかり(椎名町)

開基1710年

元は、清戸道(目白通り)と練馬方面の二又地点にありましたが、1938年目白通りの拡幅工事のため現在地に移転。

子育地蔵尊
トキワ荘ゆかり(椎名町)

南長崎ニコニコ商店会
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘通りに戻り、このあたりから南長崎ニコニコ商店会エリアへ。

紫雲荘
トキワ荘ゆかり(椎名町)

紫雲荘は、トキワ荘すぐ近くの現存するアパート。

トキワ荘の部屋が手狭になった赤塚不二夫先生が制作場所として部屋を借りました。

現在は、紫雲荘活用プロジェクトにより、若手マンガ家が居住。

入居者が、マンガ家デビューを果たしています。

トキワ荘通り
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘通り沿いの松葉の向かいを右に入ると、トキワ荘跡地モニュメントがあります。

トキワ荘跡地入口
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘跡地入口
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘跡地モニュメント
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘跡地モニュメント
トキワ荘ゆかり(椎名町)

この場所に、日本を代表するマンガ界の巨匠たちが若き日を過ごした、トキワ荘がありました。

ただし、このモニュメントは実際のトキワ荘とは180度反転していて、モニュメントが設置されているのは当時のトキワ荘の裏側。

トキワ荘跡地モニュメント
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘跡地モニュメント
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘は、1952年上棟、1982年解体。

トキワ荘跡地モニュメント
トキワ荘ゆかり(椎名町)

木造モルタル2階建てアパートでした。

トキワ荘跡地モニュメント
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘2階の部屋割り。

手塚治虫先生、藤子不二雄A先生、藤子F不二雄先生、赤塚不二夫先生、石ノ森章太郎先生、水野英子先生、よこたとくお先生、森安なおや先生、鈴木伸一先生、寺田ヒロオ先生などが居住。

松葉
松葉(椎名町)

当時、トキワ荘のマンガ家たちが通い、出前もとっていた松葉は現存。

『まんが道』をはじめ、トキワ荘ゆかりマンガの中でも実名で登場しています。

トキワ荘ラーメンライス
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘通り
トキワ荘ゆかり(椎名町)

さらに、進むと、右に鶴の湯跡地入口、その先に、南長崎花咲公園。

鶴の湯跡地入口
トキワ荘ゆかり(椎名町)

鶴の湯跡地入口
トキワ荘ゆかり(椎名町)

鶴の湯跡地
トキワ荘ゆかり(椎名町)

鶴の湯跡地
トキワ荘ゆかり(椎名町)

鶴の湯は、トキワ荘から1番近い銭湯。

トキワ荘のマンガ家たちが下駄をならしながら通いました。

1991年頃に廃業。跡地は一般住宅。

ポスター
トキワ荘ゆかり(椎名町)

水野英子先生が描いたトキワ荘。

チューダーあめ
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘通りの名物!チューダーあめ。

テラさん発明のチューダーからヒントを得て、オリジナルあめを発売。

あさひや酒店
トキワ荘ゆかり(椎名町)

商店会の複数店舗で、トキワ荘通り名物チューダーを販売しています。

チューダーあめ
トキワ荘ゆかり(椎名町)

南長崎花咲公園
トキワ荘ゆかり(椎名町)

南長崎花咲公園
トキワ荘ゆかり(椎名町)

南長崎花咲公園には、記念碑「トキワ荘のヒーローたち」が設置されています。

記念碑「トキワ荘のヒーローたち」
トキワ荘ゆかり(椎名町)

記念碑「トキワ荘のヒーローたち」
トキワ荘ゆかり(椎名町)

記念碑「トキワ荘のヒーローたち」
トキワ荘ゆかり(椎名町)

記念碑から観て歩く探す マンガの聖地 椎名町
トキワ荘ゆかり(椎名町)

建設予定
トキワ荘ゆかり(椎名町)

(仮称)マンガの聖地としまミュージアム、2020年3月オープン予定。

トキワ荘を実寸大で復元し、居室や廊下などを再現するほか、企画展示やショップなど。

ミュージアム整備のため、寄付募集中。

スエヒロ堂
トキワ荘ゆかり(椎名町)

南長崎花咲公園の隣にあるスエヒロ堂。

トキワ荘通りスタンプラリー西端なので、ゴールorスタートに(押す順番は自由)。

スタンプラリー
トキワ荘ゆかり(椎名町)

南長崎公園
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘通りをはなれ、少し歩いて、南長崎公園へ。

南長崎公園
トキワ荘ゆかり(椎名町)

南長崎公園には、マンガの聖地としま ラーメン屋台モニュメント設置。

ラーメン屋台モニュメント
トキワ荘ゆかり(椎名町)

ラーメン屋台モニュメント
トキワ荘ゆかり(椎名町)

田中正雄の仕事場
トキワ荘ゆかり(椎名町)

トキワ荘通りと目白通りの間には、田中正雄の仕事場 ゆかりの地解説板。

田中正雄先生は、手塚治虫先生と大阪時代から親交のあったマンガ家。

代表作「ダルマくん」。

落合南長崎駅
落合南長崎

トキワ荘通りは、落合南長崎駅からのアクセスもよく、都営大江戸線も利用できます。

南長崎スポーツセンター
トキワ荘ゆかり(椎名町)

ゼロくんモニュメント
トキワ荘ゆかり(椎名町)

南長崎スポーツセンター前には、ゼロくんモニュメント設置。

寺田ヒロオ先生『背番号0』のグラウンドは、南長崎スポーツ公園にあったグラウンドがモデル。

ゼロ
トキワ荘ゆかり(椎名町)

昭和のマンガ界の巨匠たちが若い青春の日々を過ごした街・椎名町(南長崎)。

モニュメントが奥まったところにあったりして、マップ片手に探しながら歩くのが楽しい!

「トキワ荘ゆかりの地 散策マップ」片手に、ゆっくり歩いてみませんか?

(トキワ荘跡地モニュメントの)場所はこのへん

トキワ荘

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練馬区桜台は石ノ森章太郎先生ゆかりの地(桜台)

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2018年は、萬画家・石ノ森章太郎先生、生誕80周年記念イヤー。

練馬区桜台は、石ノ森章太郎先生ゆかりの地。

石ノ森章太郎先生は、1938年(昭和13年)宮城県登米郡石森町生まれ。

1954年デビュー。1955年トキワ荘に住み始める。

1961年末、トキワ荘を退去。

1966年、練馬区桜台の自宅兼仕事場へ転居。

1967年、石森プロ設立(新宿区花園)。

1968年、石森章太郎プロ設立(練馬区桜台)。

1971年 仮面ライダー放映開始。

1985年 ペンネーム石森から石ノ森へ改名。

1989年 「萬画宣言」。

1998年 死去。享年60歳。

新宿の石森プロは、ライセンス管理など。

実際の創作活動は練馬区桜台の自宅兼仕事場(石森スタジオ)で行われていました。

44年間で、770作品を描いた多作の萬画家。

練馬区桜台から、多くの作品が世に送り出されました。

2018年は、生誕80周年記念イヤー。

大昔の歴史上の人物ではなく、意外と最近の偉人(生きていれば80歳)。

人気絶頂期の当時は、ファンレターの宛先として漫画家の住所が掲載されていて、練馬区桜台の自宅に多くのファンが押しかけていたとか。

桜台通りの交番には、道を尋ねるファンのあまりの多さに、石ノ森先生側で用意した地図があったとか。

「お会いしたことがある」とか、「出前したことがある」とか、

練馬区桜台には、石ノ森先生にまつわるエピソードがたくさん。

当時を知る練馬区桜台住民には、とても身近な存在。

桜台駅
桜台駅(桜台)

桜台駅改札前には、サイボーグ009の観光案内板。

サイボーグ009
桜台駅(桜台)

観光案内板(桜台駅)
桜台駅(桜台)

サイボーグ009
桜台駅(桜台)

魚民
魚民(桜台)

喫茶ラタンがあった場所は、現在の魚民(1階はパチンコ、2階が喫茶ラタン)。

喫茶ラタンには、石ノ森先生の専用席があり、ネーム入れをしていたとか。

数多くの石ノ森作品が、練馬区桜台で生まれました。

出身地・宮城には、ふるさと記念館、萬画館があり、若い頃を過ごしたトキワ荘が大注目をされる中、練馬区桜台は、あまり注目されることはありませんが、石ノ森先生ゆかりの地であることを、もっとアピールしたらいいと思う。

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パネル展示@佐々木邸(江古田)

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10/7~10/14江古田ユニバース2012関連企画。

江古田の佐々木邸(同潤会分譲住宅)で、パネル展示が行われています。

佐々木邸
佐々木邸(文化財)

外観
外観@佐々木邸(江古田)

1923年(大正12年)の関東大震災により多くの家屋が失われ、大量の住宅供給の必要が出ました。

同潤会は1924年に設立され、大量の仮設住宅を建設。翌年から集合住宅・分譲住宅の供給を開始。

火に強い鉄筋コンクリート造の集合住宅はコストがかかり、家賃収入のみでは回収が困難なことから、1928年頃から木造平屋建ての分譲住宅を中心に供給。

こちらの佐々木邸は、1934年(昭和9年)竣工の同潤会江古田分譲住宅30棟の1つで、創建時の姿をほぼ残しています。

2010年2月に文化庁により主要部分が登録有形文化財として認定されました。

当時の生活様式を知る貴重な文化財となっています。

江古田ユニバース2012関連企画として、期間中、佐々木邸の外壁に、佐々木邸保存会&練馬まちづくりセンターによるパネル展示が行われています。

パネル
パネル@佐々木邸(江古田)

パネル
パネル@佐々木邸(江古田)

パネル
パネル@佐々木邸(江古田)

佐々木邸は、原則非公開で、不定期に見学会が行われています。

内部の見学はできませんので、外観から当時の様子をお偲び下さい。

場所はこのへん

東京都練馬区小竹町1丁目36−4

佐々木邸の詳細情報

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桜台の石仏・石碑

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桜台を歩いていて、江戸時代の石仏・石碑を見つけました。

場所は桜台通り(バス通り)から広徳寺に至る旧道。

ちょうど五叉路になっているところ。

江戸時代には五叉路など交通の要所に、道案内の看板の替わりに、地蔵や庚申塔を建てて、道行く人の安全を図っていました。

江古田ゆうゆうロードの五叉路にも庚申塚があるねぇ~
 過去記事:庚申塚@江古田ゆうゆうロード

4基の石仏・石碑
IMG_2225

1番左
石仏@桜台

1番左の石仏は、寛政9年(1797年)に造立された青面金剛像の庚申塔。

左から2番目
石仏@桜台

左から2番目の石仏は、元禄2年(1689年)に造立された地蔵菩薩像。

たいへん優しく穏やかな顔をして、旅人の安全を見守っているお地蔵様。

左から3番目
石仏@桜台

左から3番目の石仏は、延享2年(1745年)に造立された青面金剛像。

邪鬼を踏みつけ、怖い顔して戦闘体制。旅人の安全を守っています。

ちなみに、一番右の石碑は、明治23年(1890年)に造立されたもの。

「馬頭観世音」と書かれています。

西洋的な文化を取り入れようとする明治政府は、日本の庚申信仰を迷信と位置づけ庚申塔などを破壊したので、残っているものはレアです。

2つの青面金剛像のお顔が崩れている(?)ように見えますが、自然に崩れたのか、削り取られたものなのかは不明です。

今ではすっかり人通りがなくなった旧道ですが、江戸時代には多くの旅人が、この前を通っていたんでしょうかねぇ。

昔はバスも電車もなく、徒歩のみだから大変だねぇ。

いろいろ想像すると、なんか歴史のロマンを感じるねぇ。

場所はこのへん

桜台駅(東京)


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江古田富士塚

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江古田冨士塚@2011/7/1

江古田浅間神社の裏にある江古田の富士塚

ここを「登山」できるのは、年3回のみ。

正月、7/1(山開き)、9月の第2土・日(浅間神社のお祭り)

当ブログでも、今年の正月に「登山」しました。
 ⇒過去記事:富士塚登山(2011/1/3)

貴重な年3回の機会、せっかくなので7/1(本日)行ってみると、

「あれ?門閉まってる!?」

そして、張り紙

震災による損傷があり、修復完了まで「登山」出来ないなんて!!

次回の9月第2土・日(浅間神社のお祭り)には間に合うのかな?

意外なところに、震災の傷跡が、まだ残っていました・・・

場所はこのへん

東京都練馬区小竹町1丁目59−2

茅原浅間神社の詳細情報


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江古田という地名のおはなし

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現在、練馬区には、「江古田」という地名はありません。駅名だけ、あります。

中野区には、「江古田」という地名があります。

でも、昔は練馬区にも、「江古田」という地名がありました。

1960年(昭和35年)、練馬区の「江古田町」は、「旭丘」に改名しました。

2つの「江古田」。先に生まれたのは、中野区側の「江古田」。

室町時代には、中野区側の江古田は、「江古田」と呼ばれていました。

江戸時代になって、武蔵国多摩郡江古田村になりました。

そこの村人が、現在の練馬区旭丘周辺を開拓。農地を整備・移住し、「分村」しました。

江古田新田(えごたしんでん)」と呼ばれました。

領地としては、武蔵国豊島郡に所属しましたが、特例として年貢の徴収などは、母村の多摩郡江古田村が行いました。

「武蔵国豊島郡上板橋村字江古田」と呼ばれました。

1878年、「東京府北豊島郡上板橋村字江古田」に。

1922年、武蔵高等学校(現・武蔵大学)創立とともに、武蔵稲荷付近に停留所が設けられました。

1923年、江古田駅が開業。

(当時は)江古田という地名の場所に建てたので、江古田駅という駅名をつけました。

1932年、板橋区が成立。

それと同時に、上板橋村は、上板橋、小山町、茂呂町、根ノ上町、大谷口町、向原町、小竹町、江古田町に分かれ、「板橋区江古田町」になりました。

1947年、板橋区から練馬区が独立。

それと同時に、旧上板橋村から、小竹町と江古田町だけが練馬区に加わりました。

小竹町と江古田町だけが練馬区になった理由は、警察署の管轄が、練馬側だった為とも言われていますが、街道が東西に走り、経済圏が近かった為とも思われます。

「練馬区江古田町」として、練馬区の東端の地区となりました。

しかし、練馬区側と中野区側に「2つの江古田」があっては、わかりづらいという論争が勃発。

1960年(昭和35年)、住民投票が行われ、「江古田町」は、「旭丘」に改名されました。

旭丘という地名は、町内の「旭ヶ丘小学校(旧・上板橋第三小学校)」から付けました。

1963年、旭ヶ丘小学校は、地名に合わせて、旭丘小学校に改名しました。

ただし、このおはなしは、読み方「えこだ」「えごた」論争とは、別のおはなし。

改名する前の「(練馬区)江古田町」は、「えごたちょう」と読みました。

諸説があり、中には、西武鉄道がイメージアップの為、きれいな発音にした、等もありますが、

実際のところは、「2つの江古田」を区別する必要性に迫られて、

練馬区側は「えこだ」、中野区側は「えごた」と、人々の間で自然に定着していったようです。

なにせ住民投票までして、わざわざ地名を変えるほど、不便だったようですから・・・

関連記事
 ⇒南町という地名のおはなし
 ⇒練馬区独立記念の碑


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放光王地蔵尊@新桜台

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新桜台駅から環七沿いに板橋方面へ少し行ったところ。

羽沢交番の先にあるセブンイレブンの裏に、お地蔵さんがあります。

放光王地蔵尊
放光王地蔵尊(羽沢)

由来
放光王地蔵尊説明書き

当、「放光王地蔵尊」は、俗に羽沢三佛の内に数ある一名「北向き地蔵さま」とも言われ、昔は練馬と板橋を堺に街道の辻に当り道行く人の目印ともなり永い間地域の人々に親しまれてきました。その建立については、確たるものは見当たりませんが地蔵信仰の暦文からして2百数十年前、平安後期から鎌倉時代に建立されたものだと察します。現在の設立は、昭和4年(1929)9月お彼岸に鈴木忠八郎翁を代表に有志43名程にて寄付されたものです。そもそも地蔵菩薩とは「クシティガルバ」の意訳で、ダイア地の母胎という意味。閻魔大王の化身ともされ、別名「妙幢菩薩」とも呼ばれる。お釈迦様が亡くなってから56億7千万年後に救済者弥勅菩薩が出世するまでの間、無仏の世界にあって地獄・飢餓・畜生・阿修羅・人・天の六道に輪廻して苦しむ人々をあの世とこの世の境である六道の入口に立ち、衆生を教化し救うという菩薩です。放光王地蔵尊は、人道を説く地蔵尊とされております。お姿は僧形が多く右手に鍚杖か与願印をとり左手に宝珠を持ち、ご礼拝供養のご真言は「おん かかか びさんまえい そわか」と繰り返すほど、そのご利益は増し安産・健康・長寿・知恵・豊作・救財などのご利益があり、病気にかからない・水の難、火の難に遭わない・苦しみに通じるところが滅びるなどの28種の功徳を得られるでしょう。この羽沢の「北向き地蔵さま」は童子のお姿で地域の人々に親しまれご利益を与えてくださることで有名です。

要約すると、平安後期から鎌倉時代に建立されたと思われる「北向き地蔵さま」。現在あるのは、1929年9月に有志が寄贈したもの。安産・健康・長寿・知恵・豊作・救財などのご利益があるそうです。

拝めば、きっとご利益があります。見つけてみて下さい!!

ところで、「羽沢3佛の内の1つ」と書かれていますが、あと2つ、どこだろ?

場所はこのへん

東京都練馬区羽沢


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