九頭龍弁財天(中村橋)
|最終更新日:2024/01/31
2024年(辰)の辰・龍・ドラゴンめぐり。
中村橋と富士見台の間、千川通り沿いの九頭龍弁財天を調査しました。
九頭龍弁財天
裏側
由来記
由来が書かれた石碑は、昭和49年(1974年)11月吉日建立。
「九頭龍弁財天は、約600年前、渡辺竜神の遺言により、安芸の厳島神社の祭神・市杵島姫大神の分御霊を奉祀した後、渡辺竜神を合祀し、この地の守護神として、貨殖の神、言論芸能の神、開運延命の神として、信仰篤く尊崇され、幾多の御利益の・・・」
「天変地異により住宅の一隅に安置されていましたが、社殿をこの地に安置・・・」(推測ですが、水害・洪水で流されて?民家の敷地にあったものを移転)
「中村橋の傍らに安置され千川改修工事の際、行方不明のままに放置されていた弘法大師碑を南蔵院より、庚申碑を坪田石材店より」
渡邉龍神碑、九頭龍弁財天祠、弘法大師碑、子庚申碑
渡邉龍神
渡邉龍神碑、側面には「豊島権守守護神勧請」、逆の側面には「昭和30年12月13日建之」
豊島家の家臣に渡辺という武士がいました。
文明9年(1477年)太田道灌により、主君・豊島氏の石神井城が落城。
豊島家が滅亡後、遺臣の渡辺は、この近辺に隠れ住んでいました。
信仰していた弁財天に、主君の仇・太田道灌の死を祈願。
弁財天の祠を建てるよう遺言を残し、渡辺は自ら命を絶ちました。
以来、村に災いが起こり、渡辺の怨念が原因ではないかと噂されました。
一説には、渡辺が、9つの頭を持つ龍神となり、祟っているともされました。
文明18年(1486年)太田道灌、暗殺され死にました。
しかし、渡辺の念願が達成された後も災いは続きました。
災いの原因は、渡辺の遺言を果たしていないからではないかという者が現れました。
九頭龍弁財天の小祠が、九頭龍橋のたもとに建てられました。
九頭龍弁財天の小祠
九頭龍伝承・信仰は、箱根神社など、全国各地にあり、雨乞い、厄除け、縁結びなど。
九頭龍橋(くずりゅうばし)は、千川上水にかかっていた橋の名前。
現在の富士見台駅南口、千川通り、富士見台駅前郵便局や牛繁がある五差路にありました。
橋の名前の由来については、この地に伝わる渡辺龍神の九頭龍伝承と、(増水時など崩れやすい)崩れ橋だと縁起が悪いので、当て字として付けられたようです。
渡辺龍神の怨念で?、橋を渡る人に災いが起きる、大蛇を見て病気になる、大入道を見て気狂いになると噂されました。
くず(れる)という音が縁起が悪いので、花嫁行列は絶対に通ってはいけない橋とされていました。
そんな九頭龍橋のたもとに、九頭龍弁財天の小祠が祀られていました。
由来記によれば、どこかの住宅の一隅に安置されていましたが、1974年、現在地に移設。
弘法大師碑
中村橋(駅の名前)の由来となった中村橋(橋の名前)は、千川上水にかかる橋でした。
現在の中村橋駅南口・千川通りの交番・マクドナルド付近。
かつては中村橋(橋の名前)のたもとに、弘法大師碑が祀られていました。
中村橋(地域の名前)には、貫井池という湧水池がありました。
現在の貫井中学校グラウンド付近。
1957年まで存在していましたが、埋め立てられて、現在はありません。
貫井池には弘法大師伝説があります。
むかし、この付近の村人たちが、干ばつで、水不足に苦しんでいました。
この地を訪れた弘法大師が、杖を地面を突いたところ、水が湧き出し、池になりました。
地を貫き、井(水をくみ上げるところ)になり池になったことから、貫井池と名付けられ、地名の貫井の由来ともなっています。
貫井池の水は、農業用水としても使われ、貫井エリアは発展しました。
村人たちは、弘法大師を中村橋(橋の名前)のたもとに碑を建て祀りました。
(弘法大師の同じような伝承は全国各地にあります。)
千川上水の暗渠化工事の際に、弘法大師碑は行方不明になってしまいました。
九頭龍弁財天の弘法大師碑には、南蔵院の銘があり、1974年11月に建立されたようで、行方不明になったのとは別物。
隣の子庚申塔については、1974年11月、坪田石材店が寄贈・奉納。
馬頭観世音菩薩碑、地蔵菩薩像
馬頭観世音菩薩碑は、九頭竜弁財天奉賛会一同による1989年12月建立。
地蔵菩薩像は、裏面に火災により命を落とした28歳の母と生後3ヶ月の男の赤ちゃんの名が刻まれています。
母子を不憫に思った地元の有志により、1956年12月建立されたものが1974年に移設されてきた?ようです。
場所はこのへん