桜台在住の管理人が練馬・桜台・江古田周辺のお店やイベントを勝手に応援中!このサイトは、アフィリエイト広告を掲載しています
練馬・桜台情報局MAP frickr フェイスブック ツイッター RSS お問い合わせ

練馬・桜台情報局

歴史探訪

子育稲荷大明神@江古田

TOP » ブログ » まち歩き日記 » 歴史探訪 »  

千川通りと文化通りを結ぶ細い路地にあります。

子育稲荷大明神
子育稲荷大明神

元々は千川上水の堤にあったものを、暗渠化にともない移設。

赤ん坊の夜泣きに大変ご利益があり、夜泣きがおさまると、お礼に油揚げを供えたとか。

(練馬区旭丘1丁目37-5)

場所はこのへん

東京都練馬区旭丘1丁目37−5


【関連記事】
    None Found

南町という地名のおはなし

TOP » ブログ » まち歩き日記 » 歴史探訪 »  

桜台駅北口、あだちやの向かいに南町医院という病院があります。



今回は、「病院」の紹介ではなく、南町という「地名」のおはなし。

年配の方には当然の話。若い人はあまり知らないかもしれない話。

昔、練馬・桜台・江古田は、南町でした、という話。

南町にできた病院だから、南町医院。その地名がなくなっちゃった珍しいケース。

本日は、珍しく(?)マジメモードで、歴史のお勉強です。

江戸時代、この一帯は、下練馬村でした。
 下練馬村:(現在の)北町、錦、平和台、氷川台、早宮、練馬、桜台、羽沢、栄町
 上練馬村:(現在の)旭町、土支田、光が丘、田柄、春日町、高松、貫井、向山

明治に入り、北豊島郡下練馬村に。平和台3-22-11に村役場がおかれました。

昭和に入り、1929年4月1日北豊島郡練馬町に改称。村役場は同じ場所で練馬町役場になりました。

1932年10月1日に板橋区が成立。北豊島郡が板橋区に編入されました。

その際、練馬町は、3つに分けられ、練馬北町、練馬仲町、練馬南町になりました。町役場は、同じ場所で板橋区練馬支所になりました。

・練馬北町(現:北町、錦の一部)
・練馬仲町(現:平和台、氷川台、早宮、錦の一部)
・練馬南町(現:練馬、桜台、羽沢、栄町)

1947年8月1日板橋区から、旧練馬町・上練馬村・中新井村・石神井村・大泉村が分離独立。練馬区が成立しました。

これに伴い、練馬北町、練馬仲町、練馬南町は、地名から「練馬」を取り除き、「北町」「仲町」「南町」に改称しました。

新桜台の開進第三小学校講堂に練馬区役所を新設。旧町役場は、練馬区役所第二出張所になりました。

現在、その場所には練馬区独立記念の碑が建てられています。
 ⇒過去記事:練馬区独立記念の碑

1949年1月15日練馬区役所が現在地に移転。

その後、1963年2月1日他、数回行われた改正で、

南町1丁目 ⇒ 栄町・羽沢1~3丁目
南町2~3丁目 ⇒ 桜台1~6丁目
南町3~5丁目 ⇒ 練馬1~4丁目

になりました。

南町が消えたのが1960年代のことなので、おそらく年配の方や地元出身者の間では常識なんですが、私は全然知りませんでした。

ちなみに、このブログのURL:https://s-nerima.jp/ の「s」は、南町のSouth(南)から付けました(・・・というのは嘘で、桜台の「s」でしたが、今日から変更という事で、よろしくお願いします。)

今後とも、南町(練馬・桜台・栄町・羽沢)のお店を勝手に応援していきます!



庚申塚@江古田ゆうゆうロード

TOP » ブログ » まち歩き日記 » 歴史探訪 »  

江古田駅と新桜台駅を結ぶ江古田ゆうゆうロード

その途中にある五叉路に、明和2年(1765年)10月18日に造立された庚申塚があります。

庚申塚(江古田ゆうゆうロード)


庚申塚とは、江戸時代に庚申信仰に基づいて、全国の街道沿い・道の交差しているところ、村の入り口などに造られた塔や塚。

平安時代、中国の道教に日本の仏教や民間信仰・習俗が融合して生まれた庚申信仰によれば、人間の体内に住む、上尸・中尸・下尸の三種類の虫が、60日に1度の「庚申の日」に、人間が眠った後で体外に抜け出し、天帝に人間の悪事を告げ口し、人間の寿命を縮めるとされ、それを防ぐため、「庚申講」と呼ばれる酒宴などをして眠らず過ごす風習が広まった。

時代が下り、「庚申の日」に限らず、青面金剛像や帝釈天などの石像・仏像を本尊として祀り、常に健康と長寿を願う為、江戸時代には数多くの庚申塔や庚申塚を建てられたんだとか。五叉路など道が交差するところや村の出口に設置する事で、三尸の虫が天帝のところに行くのをブロックする狙い。

しかし、明治時代に入り、庚申信仰を迷信と位置付けた政府の方針で撤去が進められ、道路整備の影響などで、多くの庚申塚が破壊・撤去された。寺院などの私有地にあったものを除き、破壊を免れたものは少ないようで。

結論としては、この庚申塚は、激レア歴史遺産です!

ちなみに、ネット情報では、この庚申塚に祀られているのは、青面金剛像だそうです。

・・・というような内容が、わざわざ調べなくても、近くに書いてありました…orz

庚申塚説明文


場所はこのへん


【関連記事】
    None Found

富士塚登山@江古田浅間神社

TOP » ブログ » まち歩き日記 » 歴史探訪 »  

江古田駅北口正面の浅間神社初登山してきました。

浅間神社 外観

(よく黒ネコさんが居ます。)

浅間神社の名誉(?)の為に言っておきますが、この写真は、昨年の12月30日に撮影しました。

正月三が日は、初詣参拝で、大勢の人が押し寄せ、撮影どころではありません。

特に元旦は、この参道にお参りの行列ができ、道路まではみ出して並んでいます。

浅間神社 拝殿


お正月以外でも、年配の方などは、前を通る時に立ち止まってお辞儀をする等、普段から信仰を集めている神社です。

この拝殿の右奥に、国の重要有形民俗文化財に指定されている「江古田の富士塚」への入り口があります。


(クリックで拡大)

江古田の富士塚とは、富士山を信仰の対象として、江戸時代に作られた、高さ8m、幅30mの人工の山です。

頂上に、天保10年(1839年)に建築された石祠があります。

江戸時代には、富士山に登ると御利益があると広く信じられていて、必要な費用を出し合って代表者を富士山に送る「富士講」と呼ばれる組織が、関東各地に結成され、上板橋、中新井、下練馬の人々を中心に結成された、「小竹丸祓講」という富士講が作った山とされています。

代表者に選ばれなかった講員全員にも、富士山の御利益がいきわたるよう、リトル富士山を自分たちで作り、富士山から実際の溶岩を運ぶなどして、それに登る事で、「富士山に登ったのと同じ御利益が得られる」と考えていました。

江古田の富士塚入り口(2010年12月30日撮影)


通常、江古田の富士塚入り口は、鍵が掛けられ、閉ざされています。

正月3が日、山開き(7月1日)、浅間神社のお祭り(9月第2土・日)の、年3回のみ開山され、入山が許されます。



今日(1月3日)は、鍵が開いていました。

大山不動尊座像


入ってスグ、滝があります。撮影した時は、ただの滝だと思ってたのですが、よく見たら、上の方に石像が。ネットで調べたところ、大山不動尊座像との事。寛政2年(1790年)に建てられ、明治14年(1881年)に補修。

神猿


入り口では、向かい合わせの2匹の神猿がお出迎え。猿は神様の使いとされ、大正5年(1916年)に寄進されました。

茅原伏見稲荷神社祠


奥にあるのが、茅原伏見稲荷神社祠です。

何故「お稲荷さん」が? 浅間神社は、木花咲耶姫という別の神様を祀ってるんじゃ?と思いますが、基本的に、木花咲耶姫という神様は、「妻の守護神、安産の神、子育ての神」とされていて、農業と商売までカバーしきれません。そこで、「稲の神様」である稲荷大明神さんに、農業、商業分野をカバーしてもらい、いろんな神様に集まってもらって、神様連合を結成して、御利益を倍増させようというのは、よくある事のようです。多神教の国です。なんでもアリです。

身禄尊祠碑


昭和8年(1933年)設置。詳細不明。

歌碑


歌碑・・・全然、読めまへん。傾いてて、やや危険な気が。

烏天狗さん


大正12年(1923年)造立。

大天狗さん


大正12年(1923年)造立。

頂上の石祠


天保10年(1839年)にはバリアフリーという概念はないので、かなりキツイ。

溶岩ゴツゴツで、転んだら大惨事が起こりそうですが、怪我なく登頂・下山できたのは、さっそく御利益があったからかも。

江古田市場通り方面


頂上から江古田市場通り方面を眺めてみると、2階の高さに設置してある若みやさんの看板が、眼下に見えます。高さ8mって、たいした事ないと思ってたけど、意外と高いんだ。。

富士山(ついでにお稲荷さん)の御利益を受けたい方、次回は7月1日山開きの日に開山です!是非!!

場所はこのへん

東京都練馬区小竹町1丁目59−2

茅原浅間神社の詳細情報


【関連記事】
    None Found

桜の碑

TOP » ブログ » まち歩き日記 » 歴史探訪 »  

千川通り沿い、菊元の向かい側に、桜の碑があります。



その脇には、この碑に関する説明文が添えられています。



桜台の名前の由来ともなった千川上水の桜並木。それを記念して有志の人が建てて区に寄贈したそうです。

説明の内容は、清戸道と千川上水と完全にカブってます。・・・どうせ誰も見ないだろうと油断したな!練馬区教育委員会。それを見つける地域ブログ。恐るべし!?

この看板、見つけたのは3枚目です。・・・練馬区教育委員会!いったい幾つ立てたの!?・・・地域ブログの意地にかけて、全部見つけてやる!!(無理&無駄)

素人が個人で運営しているので、情報提供等いただいても、遠方には行けませんw


【関連記事】
    None Found

埼玉道

TOP » ブログ » まち歩き日記 » 歴史探訪 »  

以前ご紹介した練馬区独立記念の碑の横に、もう一つ、「埼玉道」というがあります。

場所は開進第三小学校のフェンスの外です。



江古田駅南口の五叉路、加藤材木店の前の交差点を「江古田二又」と言います。都バス61系統のバス停の名前にもなってます。

目白方面から来たとき、清戸(清瀬市)方面に行く清戸道に対し、埼玉方面に行く埼玉道が、二又に分かれていることから、江古田二又と言うそうです。五叉路なのに、なんで二又?と前から思ってた疑問が解消!

そして、江古田二又から線路を渡り、新桜台駅方面へ、相棒の前を通り、開進第三小学校の前を通り、埼玉にいたる道の事を、埼玉道と呼ぶらしいです。


【関連記事】
    None Found

清戸道と千川上水

TOP » ブログ » まち歩き日記 » 歴史探訪 »  

千川通り沿い、ローソンストア100から環七方面へ行く最初の信号のところに、「清戸道」というがあります。

そこには「清戸道と千川上水」という説明文が添えられています。


↑クリックで拡大します

目白から清瀬市方面への道、千川通りで定着していますが、清戸道とも言うそうです。

清戸道に沿って、江戸時代、千川家によって千川上水という人工水路が作られ、昭和になって、暗渠化(川などの上を地面で覆う)され、現在のような道路になったようです。

道の両サイドに桜の木があって変だと思ってましたが、実は昔、人工の川だったんですね。納得。千川上水と石神井川にあった桜の木が、桜台の名前の由来でもあるそうです。


【関連記事】
    None Found

練馬区独立記念の碑

TOP » ブログ » まち歩き日記 » 歴史探訪 »  

昔、東京23区ではなく、22区だったってご存知でした?

1947年8月1日に板橋区の一部だった練馬町、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村が分離独立して、23番目の区として、練馬区が成立しました。。

そして、独立当時、開進第三小学校の講堂を練馬区役所として利用。1949年1月15日に現在の練馬区役所の場所に移転したそうです。

たった2年だけですが、練馬区の中心地だったわけで、それを記念して碑が立ちました。

独立後30周年記念で学校の敷地内、校庭に立てたそうですが、邪魔になったので区民の皆さんに親しんでいただく為、独立後60周年の時、学校の敷地外、正久保通り沿いに移設されました。

練馬区独立記念の碑

説明文


【関連記事】
    None Found