江古田という地名のおはなし
|最終更新日:2011/05/11
現在、練馬区には、「江古田」という地名はありません。駅名だけ、あります。
中野区には、「江古田」という地名があります。
でも、昔は練馬区にも、「江古田」という地名がありました。
1960年(昭和35年)、練馬区の「江古田町」は、「旭丘」に改名しました。
2つの「江古田」。先に生まれたのは、中野区側の「江古田」。
室町時代には、中野区側の江古田は、「江古田」と呼ばれていました。
江戸時代になって、武蔵国多摩郡江古田村になりました。
そこの村人が、現在の練馬区旭丘周辺を開拓。農地を整備・移住し、「分村」しました。
「江古田新田(えごたしんでん)」と呼ばれました。
領地としては、武蔵国豊島郡に所属しましたが、特例として年貢の徴収などは、母村の多摩郡江古田村が行いました。
「武蔵国豊島郡上板橋村字江古田」と呼ばれました。
1878年、「東京府北豊島郡上板橋村字江古田」に。
1922年、武蔵高等学校(現・武蔵大学)創立とともに、武蔵稲荷付近に停留所が設けられました。
1923年、江古田駅が開業。
(当時は)江古田という地名の場所に建てたので、江古田駅という駅名をつけました。
1932年、板橋区が成立。
それと同時に、上板橋村は、上板橋、小山町、茂呂町、根ノ上町、大谷口町、向原町、小竹町、江古田町に分かれ、「板橋区江古田町」になりました。
1947年、板橋区から練馬区が独立。
それと同時に、旧上板橋村から、小竹町と江古田町だけが練馬区に加わりました。
小竹町と江古田町だけが練馬区になった理由は、警察署の管轄が、練馬側だった為とも言われていますが、街道が東西に走り、経済圏が近かった為とも思われます。
「練馬区江古田町」として、練馬区の東端の地区となりました。
しかし、練馬区側と中野区側に「2つの江古田」があっては、わかりづらいという論争が勃発。
1960年(昭和35年)、住民投票が行われ、「江古田町」は、「旭丘」に改名されました。
旭丘という地名は、町内の「旭ヶ丘小学校(旧・上板橋第三小学校)」から付けました。
1963年、旭ヶ丘小学校は、地名に合わせて、旭丘小学校に改名しました。
ただし、このおはなしは、読み方「えこだ」「えごた」論争とは、別のおはなし。
改名する前の「(練馬区)江古田町」は、「えごたちょう」と読みました。
諸説があり、中には、西武鉄道がイメージアップの為、きれいな発音にした、等もありますが、
実際のところは、「2つの江古田」を区別する必要性に迫られて、
練馬区側は「えこだ」、中野区側は「えごた」と、人々の間で自然に定着していったようです。
なにせ住民投票までして、わざわざ地名を変えるほど、不便だったようですから・・・
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