館内編・上@トキワ荘マンガミュージアム(椎名町)
|2020年7月16日
椎名町に7/7オープン!トキワ荘マンガミュージアム。
案内
外観
2020年7月7日オープン。南長崎花咲公園(トキワ荘公園)内。
外観や周辺については、館外編にまとめました。
⇒関連記事:館外編@トキワ荘マンガミュージアム(椎名町)(2020/7/16)
お客様へご協力のお願い
外観
さっそく館内に入っていきましょう。
なお、初見での感動を奪う意図はありませんので、これから行く予定で現場で初めて見たい方は、ここから先は見ないで下さい。既に行った方、これから行く予定だが見てもいい方、遠方すぎて現地に行くのが難しい方、新型コロナで外出するのが怖いのでネットで見たい方向け。
フロア案内
1階は、マンガラウンジ、企画展示室。
2階は、常設展示室、再現部屋、パネル展示室、炊事場、便所、廊下。
渡り廊下でつながる、左にある建物(非公開)は、収蔵庫、スタッフルーム。
収蔵庫には、展示されていない資料などが保管されています。
配電盤
階段
階段
トキワ荘(本物)と同じ14段に造られた階段は、色や質感だけでなく「ギシギシ」という音も忠実に再現。
撮影可能エリアのご案内
配布している「撮影可能エリアのご案内」で、グリーンの撮影可能エリアにある部屋や廊下は撮影OK、グレーの部屋は撮影NG、と、スタッフから説明を受け、7/9に、撮影可能エリアのみ撮影。グレーの部屋にあるパネルの右下に、撮影NGマークがついているもの、ついていないものがあるのに気づき、スタッフに確認したところ、グリーンの撮影可能エリアは、すべて例外なく撮影可能。グレーの部屋は、撮影NGのものが含まれており、撮影NGマークがついているものだけ撮影NG、グレーの部屋でも撮影NGマークがついていないパネルなどは撮影可能、と確認。7/9閉館時間が迫っていたため、事前予約を取り直し、7/16グレーの部屋の撮影NGマークがついていない部分を追加で撮影。
なお、撮影可能なものを撮った写真であれば、営利・商業目的ではない個人が趣味で運営しているブログ・SNSは、事前の取材申請・審査や、掲載前の検閲・校正は不要で、掲載可能と、スタッフに確認済。
撮影可能エリア
撮影可能エリアは、撮影OK、フラッシュ・三脚禁止。
※一脚、自撮り棒は使用禁止。全館動画撮影禁止。
2階配置図
2階は、炊事場、便所は、各部屋にはなく共同。
トキワ荘は、今でいうシェアハウスでした。
風呂なし、近所の銭湯に通っていました。
各室の広さは、4畳半。
階段すぐの部屋だけ広く、常設展示室に。
23号室は、エレベーターに(後述)。
マンガ家だけでなく、一般の方も住んでいました。
1954年
1956年
1958年
1961
廊下
整理整頓
常設展示室 13号室
階段からすぐの部屋(玄関の上)だけ広く、ベランダもありました。
トキワ荘(本物)では、マンガ家ではなく、一般の家族が住んでいました。
ミュージアムでは、常設展示室として利用。
常設展示室では「椎名町とトキワ荘の時代」展。
パネル「トキワ荘があった椎名町ってどんなまちだったの?」(撮影NG)
パネル「椎名町アルバム」(撮影NG)
パネル「トキワ荘の時代」(撮影NG)
パネル「トキワ荘があった頃の椎名町」(撮影NG)
写真&模型「トキワ荘があった頃の椎名町」(撮影NG)
14号室
トキワ荘に、最初に入居したマンガ家は手塚治虫でした。
棟上げの翌年1953年、トキワ荘14号室に入居。
トキワ荘の住人で、雑誌『漫画少年』加藤謙一氏の次男の紹介でした。
既に「ジャングル大帝」や「鉄腕アトム」などを連載。(ジャングル大帝『漫画少年』1950年11月号〜1954年4月号、鉄腕アトム『少年』1952年4月号〜1968年)
食べられない駆け出しのマンガ家というイメージのトキワ荘ですが、手塚先生は例外で、既に売れっ子。
1954年の年収は217万円、長者番付の画家部門1位。
後にトキワ荘に入居するマンガ家からは、あこがれの存在でした。
翌年1954年10月、鬼子母神の並木ハウス2階10号室に転居。
空いた14号室には、手塚先生と入れ替わりで、藤子・F・不二雄(藤本弘)先生と藤子不二雄A(安孫子素雄)先生の2人が入居します。
当時のトキワ荘の家賃・礼金は3000円、敷金は3万円でした。
手塚先生が退出する際、敷金3万円と、マンガを描く机を置いていってくれたのは有名なエピソード。ちなみに、敷金3万円は6年かけて手塚先生に返済されました。
手塚先生と藤本・安孫子(藤子不二雄)両先生は、同じ机を使って、マンガを描いていました。
その譲り受けた机(本物)は、安孫子先生の実家である富山・氷見の光善寺にあります。
14号室
14号室は、再現部屋ではなく、パネル設置部屋。
パネル「トキワ荘とは」
パネル「トキワ荘年表」
パネル「トキワ荘再現までの道」(撮影NG)
トキワ荘とは
ふすま絵
天井
ミュージアムでは、天井も当時のものを再現。
豊島区郷土資料館に保管されていた本物のトキワ荘の天井板を高解像度撮影。
不燃クロス材にプリントして設置、エイジング加工。
天才マンガ家たちが青春時代、アイデアに詰まって寝転び見上げていたかもしれない天井。
是非、部屋に入ったら、見上げてみて下さい。
15号室
14号室に2人で同居して使っていた藤子両先生でしたが、隣の15号室が空いたため、翌年1955年、藤子・F・不二雄(藤本弘)先生が15号室に転居。
1955年から15号室では、藤本先生が、富山から母を呼びよせ同居。
同じく、14号室では、安孫子先生が、富山から姉を呼びよせ同居。
1959年創刊の『週刊少年サンデー』創刊号からの新連載にそなえて、近所の兎荘というアパートに仕事部屋を借り、追い込み時には兎荘に泊まり込むこともありました。
昼には藤本先生のお母さんの料理を食べにトキワ荘に戻っていました。
1961年トキワ荘を退去し、川崎市へ。
藤子スタジオを設立し、安孫子先生の実姉が社長。
15号室
15号室も、再現部屋ではなく、パネル展示室。
パネル「トキワ荘のくらし」
パネル「1956年の物価」
パネル「マンガ家たちの生活・文化圏マップ」(撮影NG)
16号室
1954年5月4日 石ノ森先生の部屋に居候としてトキワ荘19号室に入居。
両先生とも大御所すぎて想像つきませんが、赤塚先生は石ノ森先生のアシスタントや身の回りの世話をしていました。
1956年8月、石ノ森先生のいた19号室の隣が空いたため、赤塚不二夫先生は、23号室に入居。
しかし、23号室は、1階の共同炊事場の真上にあり炊飯の時間など暑く、西日も当たり、仕事にならないので、16号室に転居。
1957年4月、赤塚先生の母親が上京・同居。
1960年 近所の紫雲荘202号室を仕事部屋として借り、食事時には母の料理を食べにトキワ荘に戻っていました。
1961年 赤塚先生は、1度目の結婚をして、近所の鈴木園2階へ転居。
赤塚先生転居後も、赤塚先生の母はしばらくトキワ荘り、1962年〜64年には赤塚先生の父も入居。
マンガ家へんしん部屋
16号室は、「マンガ家へんしん部屋」と題し、マンガ家になりきって撮影できるコーナー。
16号室(7/9)
16号室(7/16)
開館した週7/9にはあったのですが、新型コロナ感染拡大防止のため、7/16訪問時には撤去されました(新型コロナ収束次第、再開予定)。
17号室
石ノ森章太郎先生は、1956年5月4日、最初は、トキワ荘19号室に入居。
しかし、西日が強すぎて徹夜後に昼間に寝ていても起きてしまうため、向かいの17号室に転居。
1956年5月15日 宮城・登米から姉が上京・同居。
1958年4月4日 トキワ荘のマドンナ的存在だった姉が急逝。
1961年8月 世界一周旅行(70日間)。
1962年 トキワ荘を退去。銭湯あけぼの湯に隣接した、あけぼのハウスに転居。
17号室
17号室のマンガ家体験は、実際にペン入れなどを体験できるコーナー。
新型コロナ感染拡大の為、休止中。
パネル「マンガができるまで」(撮影NG)
パネル「マンガの表現」(撮影NG)
映像「マンガの描き方」村井直巳先生
18号室
18号室(再現)
18号室(再現)
18号室(再現)
18号室は、隣の17号室の石ノ森先生がアシスタントの仕事部屋として借りていました。
アシスタントの山内ジョージ先生、のちに、長田吉夫先生が加わり、机が2つ再現されています。
室内にある映画フィルムや本などの私物は、自室に置ききれずにあふれた石ノ森先生のもの(再現)。
石ノ森先生は、自室17号室の退去後も、アシスタント部屋はしばらく残していました。
山内先生は、1960年9月〜1962年3月までトキワ荘に住み、石ノ森先生や赤塚先生のアシスタントをしました。
山内ジョージ先生が、マンガ家としてはトキワ荘の最後の住人でした。
長くなりすぎたので、館内編・下に続きます。
⇒関連記事:館内編・下@トキワ荘マンガミュージアム(椎名町)(2020/7/16)
場所はこのへん
トキワ荘マンガミュージアムの詳細情報